感傷的なワルツ
「もうやめなよ」
嫌だ
「人の気も知らない癖に」
違う
「・・・こんな君は見てられない」
「だからもう、君とはお別れだ」
嫌だ・・・!
「さようなら」
うそだ・・・!
戸惑う僕に背を向けて、君は歩き出した。
待って・・・行かないで!
そう言おうと口を開いたが、息が詰まって声が出なかった。見えない手に、首を締められているようだった。それは少しずつだが、確実に僕を殺そうとしている。
身体が冷たくなって力が抜けていく。
たすけて 誰か たすけて
叫ぼうにも声なんて出なかった。
――もう終わりだ―――。
そう思った次の瞬間・・・
目が覚めた。
目を開けると、そこにはいつもと変わらない無機質な天井があった。 視線を少しずらし、机の上のデジタル時計に目をやった。
“14:40"
もう午後なのか・・・。
確かめるように自分の手を見ると微かに震えている。
落ち着け、ただの夢だ。例え、それがあの日起こったことの名残だとしても。
僕はソファーから降りて立ち上がった。とたんに吐き気のするような頭痛に襲われて顔をしかめる。小さく悪態をつくが、すぐに頭痛の原因が思い当たった。
窓の外から雨音がする。僕は雨が大嫌いで、降るたびに頭痛を起こすのだ。そんな僕にとってこの季節は地獄であった。何日も降り続く雨に、じめじめとした空気。最悪だ。
僕は窓辺に近付くと溜息をついた。
「・・・うるさい」
しとしとと降り注ぐ雨の音は、耳障りな騒音でしかない。
「うるさいんだよ」
窓ガラスに手を置いたまま呻く。
微かに汗ばんだ服を着替え、僕はまたソファーに身を沈めた。
あぁ、退屈だ。
この天気じゃあ外には出られないし、部屋の扉を開けるのすら億劫だ。実際、僕は用をたす以外で、もう何日も部屋から出ていない。部屋には鍵をかけ、ろくな食事もせずに、こうして薬の作り出す歪んだ眠りと現実の狭間に身を投じるのだった。
第一この部屋にあるのは、必要最低限の家具と、沢山の効かない薬と、床に散らばった大量の本と、バイオリンだけだ。
ん・・・待って、バイオリン?―――――しばらく弾いてないな。
僕はまた頭痛が起こらないように慎重に立ち上がると、壁際に立て掛けられたケースからそれを丁寧に取り出した。少し思案したあと、あの曲を弾き始める。それはたまらなく切なくて、けれどもどこか優しげな三拍子。君の好きな曲だった。
雨音にかき消されようが構いはしなかった。
その最後の旋律を弾き終わったあと、僕は何かが頬を伝うのを感じた。それが涙だと自覚するまでに数秒かかり、気付いた頃には既に遅かった。涙は堰が切れたように流れ続け、止めようにも止められない。僕はその場に膝をつき、バイオリンの弓をぎゅっと握ったまま嗚咽を堪えようとするのが精一杯だった。
悪いのは最初から僕だったのだ。いや・・・そんなことは初めから分かっていた。ただ、認めたくなかったから、我儘な己の過ちを君に押し付けたのだ。
「・・・・ご、めん、なさい・・・っ」
涙でぐちゃぐちゃで何が何だか分からなくなりながら、そう言った。言わなければならない気がした。けれども、自分の中の冷静な部分が、”その声も、あの人には届かないんだよ”と嗤った。そんな自分が酷く恐ろしく感じる。
あぁ、僕はきっと君を傷付けたに違いない。だから、あんなふうに君はいなくなった。それを、全て君のせいにしていた僕は愚か者だ。君が去ったのは全部僕の責任なのに。
お願い、どうか、ここに戻ってきて。大切な君を二度と傷付けたりしないから。薬も辞めるし、もう自分の身体も傷付けたりはしない。何でも言うことを聞くからお願い、戻ってきて・・・。
それが言えたらどんなに楽だったか。君に縋り付いて、泣きながらそう言ったら君は赦してくれただろうか?
だがそれももう、叶いはしない。君は去ってしまったのだから。
涙はいつしか収まっていた。僕に残されたのは耐え難い虚無感だけ。
フラフラと立ち上がり、その辺に転がっている薬の瓶を開けて綺麗な水色の錠剤を浴びるように飲み下した。
苦しい・・・。けど僕にはこれがお似合いだし、他には何もないのだ。
そしてやっとの思いでソファーに這い上がり、灰色の天井を見つめる。
やっぱり、僕は変わらないな・・・。
そう思うと、急に嗤いが込み上げてきた。それは実にニヒルで自嘲的な、狂気そのものだった。
「ハハ・・・ハハハハッ・・・ハハハ」
ひとしきり笑ったあと、僕はゆっくりと目を瞑る。何だかとても安らかな気分だった。どこか遠くで、あの切なくて優しげなメロディーが聞こえたような気がする。
・・・次に目を開けたときには、君に会えるといいな。
―――――カタリ――。
バイオリンの弓が手から滑り落ちた。